福井のパワースポット 金崎宮

 
 
 
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    占いパワースポット 金崎宮
 
壮絶な南北朝の動乱に挑んだ皇子たち
 
金崎宮の境内は、歴史上に名高い金崎の古城址に鎮座しています。
緑あふれる木立の中に厳かにそびえる神明式・檜造りの宮殿は、金色に光っていて、
海に映る姿はひときわ風情があります。
 
ご祭神は、後醍醐天皇の第一皇子・尊良親王と、
第六皇子の恒良親王のお二方です。


 
尊良親王は幼少期からすでに聡明さあふれており、嘉暦元年の正月、16歳でご元服(成人男子になったことを示す儀式)し、その日のうちに中務卿(中務省の長官という意味で、天皇家の家系独特の役職)に任ぜられます。
元徳2年、一品(親王の品位のことで、天皇家独特のもの)に進み、武具を賜りました。
 
後醍醐天皇は、かねて北條氏の無礼で高慢な振る舞いを憎み、
何とかして北條氏を滅ぼそうと思し召しておりましたが、
ついにその謀(はかりごと)が漏れてしまいます。
元弘元年8月には、北條氏の使者がやって来て、天皇を遠島に島流しにする事や、皇族や諸公卿のうちでこの謀に関係した者をひとり残らず処分しようとしていました。
 
そこで天皇は夜の間に京の都を出て、笠置山にお入りになり、
親王のほうは藤原藤房(ふじわら ふじふさ)たちと共に、正成の赤坂の城へお入りになったのですが、間もなく天皇は捕らわれてしまい、佐々木時信の家に幽閉の身になります。
この頃の親王の歌があります。
「  世のうさを   空にも知るや神無月
      ことわりすぎて  ふる時雨かな   」
 
翌元弘2年3月、親王は都に遠い土佐の畑に流されてしまい、
「  聞きなるる  契もつらし衣うつ
      民のふせやに  軒をならべて  」
 
「  春かすみ  かすむ浪路はへだつとも
      便しらせよ  八重のしほ風  」
などの歌をお詠みになって、心のうちの苦しさを述べられました。
 
ところが天運めぐり来て、翌3年の5月には京鎌倉も一時に滅び、天皇はご帰還になり、親王もまた都へ帰られました。
わずか3年ばかりが過ぎたころ、足利尊氏らは謀反を企てたので、都はまた騒然となります。
そこで親王は上将軍となり、副将軍の新田義貞とともに、平定の大任を負って東国に下ります。
途中、賊兵を破って箱根まで進みますが竹の下の戦いに挫けてしまい、余儀なく兵を退いて都に退却されました。
 
足利尊氏は京の都に攻め入り、一度は破れて九州まで逃げましたが、
延元元年5月、再び大勢の兵を連れて上京してくると、そのため新田義貞は退却し、正成も戦死してしまい、都はたちまち足への占領する場所となってしまいました。
 
その時天皇は比叡山にお入りになられていて、毎日のごとく戦争が続いていましたが、その年10月、足利尊氏は天皇のもとへ赴き、偽りの態度で都へ帰るよう願い出たので、
親王は皇太子・恒良親王とともに北国の任にあたり、新田義貞、新田義助らを従えて雪やみぞれで道なき道を歩き、敦賀まで到着しました。
敦賀まで着くと、気比神宮の大宮司 気比弥(けひのや)三郎が三百人ほど兵を従えて迎え、金崎城へと案内しました。
 
それを聞いた賊将の足利高経は、兵を率いて城の周囲を囲み、
さらに足利尊氏は高師泰(こうのもろやす)に六万の兵をつけて、急に城に攻めて来ました。
当時 金崎城にはわずかばかりの守兵しかおりませんでしたが、いずれも一騎当千の勇士ばかりだったので、さすがの賊も手のつけようがありませんでした。
 
ただ遠巻きに城を囲むこと5ヶ月、この間にひとりの兵も助けに来る者は無かったので、金崎城内は日ごとに食糧が乏しくなって来ました。
そこで相談をし、新田義貞・義助ら7人がある夜にそっと城を抜け出して、
杣山城(そまやまじょう)に向かい、援兵を求めました。
しかし杣山にもわずかに五百人ばかりの兵しかおらず、甲冑などの武具も満足に揃わないので働けず、せっかく城を出てきた新田義貞たちもしばらくはその地に留まらざるを得ませんでした。
 
するとまた金崎城のほうでは、軍馬までも食べ尽くし何も残っておらず、疲労しきった兵たちは、ただ死ぬのを待つという窮地に陥ります。
それを知ってか賊のほうでは大軍を攻め入れ、城の扉を破り攻め込んできます。
 
この時二人の者が、城将の新田義顕の前に進み出て、
「城兵は数日の疲労によって、いまや一本も矢を放つこともできません。
恒良親王様は東宮から小舟で逃げて、その他の人々は一ヶ所に集まって、自害せられたほうがよろしいでしょう。その間我々が攻め口に向かって、必ず敵を防ぎます。」
と言って引き返しました。
 
これを聞いた城将・新田義顕はいかにも左様だとうなづきながら、恐る恐る親王の前に進み出て、
「これまででございます。臣等(私等)は武将の家に生まれ弓矢の名を惜しむ者ゆえ、このまま自害いたします。しかし貴き御身の上様には、たとえ敵中におられようとも御命を奪うようなことはないと思いますから、このまま此処へおらせ給へ。」
と心を込めて申しました。
親王は、
「天皇は都へ帰った時には、われをもって元首の将とし、汝をもって股肱の臣とするぞと仰せられた。股肱なくてはいかで元首を保つことが出来ようか。われは命を白刃の上に縮めて、怨みを黄泉の下に報いやろうと思う。
そもそも自害は如何にするものぞ。」
と仰せられました。
 
城将・新田義顕は、涙を抑えながら、「自害はかように致すもので・・・。」と、刀を抜いて逆手に取り直し、左の脇に突き立てて、右の肋骨かけてかき破り、静かにその刀を親王の前に置いて、息を引き取りました。
親王はその刀を取ると、柄には血が付いていてすべりますから、衣の袖にて柄を巻きつけると、肌を出して御胸のあたりに突き立てて、新田義顕の上に重なり伏せました。
御年尊良天皇27歳、新田義顕わずか18歳。  延元2年3月6日の事でした。
この時、周りに居た 佐近中将・藤原行房以下の人々は、いざさらば宮の御供参ろうと、一度に腹を切り討死を遂げ、八百あまりの城兵も、みな残らず死んでしまいました。
 
気比齋晴(けひのなりはる)に蕪木浦まで付き添われて、それから先は一人となった皇太子・恒良親王は、間も無く賊に捕らわれの身となりました。
 
いっぽう足利高経は、新田義貞と、義助の首がないことに気付き、これを恒良親王に質問しました。
恒良親王は今真実を言えば、杣山城を攻められる恐れがあると確信し、
「義貞、義助は昨夜自害したのであるが、火葬にするとて騒いでいたようだから、おおかた灰になったのであろう。」と偽りました。
賊のほうでも安心して、深く探らずそのまま恒良親王を都に送り、
やがて恒良親王は、御弟の成良親王とともに幽閉されてしまいました。
 
ところが新田義顕・義助はこの間に兵を貯えてたちまちいくつかの城を破ったので、足利尊氏・直義は恒良親王の嘘を憎んで、一袋の薬をよこしました。
成良親王は薬を見るなり、「幽閉までして苦しめておきながら、薬をすすめるほどわれわれを愛しているわけがない。これは毒薬に相違ない。」
と、庭の中へ投げ捨てようとしましたが、恒良親王はその毒を取って喉に下し、
幽閉の苦しみよりは死ぬ方がましだと仰せになり、御年わずか15歳で息を引き取られました。
 
明治維新の後、23年9月、金崎宮という名を与えられ、
次いで25年12月には、恒良親王を一緒にお祀りすることとなりました。
 
 
 
 
 
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拝観料     無料
拝観時間   終日 

電車のアクセス
JR「敦賀駅」より、ぐるっと敦賀周遊バスに乗り換えで18分、
「金崎宮口」下車、徒歩10分

 車のアクセス
北陸自動車道「敦賀インター」より車で10分。
インターより8号線武生・福井方面へ、8号線より敦賀港方面へ、
余座の信号を左、天筒山トンネル通過後、3ツ目の信号
(角に天満神社がります。2つ目の信号は旧の8号曙の信号です。)
を右、約500mで踏み切りあり、越えてすぐ左に駐車場があります。
普通自動車は30代無料駐車場があります。
 
 
 所在地
〒914-0072
福井県敦賀市金ヶ崎町1-4
TEL:(0770)22-0938
 
 
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