日常生活こそ修行と教えた道元禅師
曹洞宗の大本山である永平寺。道元禅師は曹洞宗を開いた開祖として広く知られています。
その出生は源氏の流れをくむ内大臣・源通親(久我通親 こが みちちか)の子として、
代々公卿の家に生まれました。
もしも出家をしなければ、そのまま成長して政治の道に生きてゆけるような家柄でした。
しかし幼いときに母を失った道元は、少年ながらすでに人生の無常を知ってしまいます。そして同時に道元の心には懐疑も芽生えました。
本来法世、 天然自性身、 何によってか
三世の諸仏は発身修行せしや
これまでの仏教の教えでは、人間も仏も一つであるとして即身成仏を説いていました。
即ち 生きたままの肉身で、人は仏になることが出来るというものでした。
しかしそれでは何故 、これまでに現れた釈尊をはじめとする高名な仏たちは、あれほど厳しい修行をしなければいけなかったのだろうか。
修行しなければいけないというなら、その修行とは何であろう。
そのような思いが道元の心には根付きました。
その懐疑を抱え、道元は14歳で仏門に入ることになります。
道元ははじめ当時の日本の教学の中心で、国立の最高学府のような存在だった比叡山に身を寄せることとなりました。
そこでは万巻の書を蔵し、学問の上では多くの知識を身につけた僧たちがいましたが、
そのような学府の中にいても少年の道元の懐疑は解けませんでした。
当時は、学府が僧の出世に直につながっているような流れがありました。これでは本当の修行などあり得るはずがないと道元は思ったのです。
その頃は、学府を捨てて、巷に身を隠し 法を説く法然や親鵞のような僧もおり、
また大陸に渡って人々に本当の教えとは何かを悟らせようとする栄西のような僧もいました。
道元は建仁寺に移って栄西について学ぼうと決意しましたが、
それが出来ないうちに栄西は他界してしまい、
道元が建仁寺に移ったとき栄西の弟子・二代目 明全和尚となっていました。
明全は弟子の道元の問いに対して、十分に教えることができないものを感じ、そのため
1223年、宋(中国)へ、23歳であった道元をつれて留学することを決意します。
道元は師とともに宋に渡ってまだ日が浅いとき、
阿育王山から食事の買い出しに来ていたの台所担当の典座(てんぞ)という老僧と問答し、
修行にのみ打ち込み他の雑事などしなくてもよいのではないかという道元に対して、
典座は笑い飛ばし、他の修行者のために裏方で黙々とつとめることもまた修行と教えました。
この出来事は道元の心に大きな驚きと変化を与えます。
このことが後に道元の掲げる、 生活体現の禅の基礎となったのでしょうか。
宋では天童山景徳寺に入り、厳しい修行に打うち込みながら、諸山の巡歴にあたりました。
この巡歴の間も、道元は満足するに至らず、再び明全のいる天童山へ入ります。
住持は如浄禅師になっていました。如浄は道元に面授というものを教え、
仏法相承は経典の知識や公案でなされるものでは無く、生きた人間の人格の触れ合いによるほかないと説き、道元はここで己を託すべき仏法の師を見出しました。
ここで建仁寺に入ってから長い間頼りにしてきた師の明全は病のため寂してしまいました。
如浄は徹底して只管打坐(しかんたざ)を強調し、徹底的な修行の人でした。
朝は2時半から3時には起き出し、夜は11時までも禅の修行に打ちこみ、
1日も休むことなく僧堂につめて指導し、眠るものには拳をあげて目を覚まさせ、
また夜であろうと食後であろうと時をかまわず太鼓を打って僧侶たちを集めては説法し、入室させては問答に応じました。
道元はそれに応えるように、たとえ病で死んでもかまわないと心に決めて徹底的に修行に励む日々が続きました。
この熱心な修行の末、ある日、如浄が眠っている僧を呵嘖するのを聞いて大悟(心身ともに脱落)しました。
如浄から大法の相承も許され、1227年、後に道元自ら「空手還郷」と言っているように、一巻の経、一冊の禅録もたずさえることなく、自ら釈迦牟尼仏五十四世となって帰郷しました。
その後建仁寺の堕落を目の当たりにし、比叡山からの圧力などに遭遇しながらも、
寛元2年には山奥の寺に入り、その寺に「永平寺」という名を附しました。
(現代の永平寺は他の場所に移されており、五代・義雲になったときに移されました。)
道元禅師がのこした「正法眼蔵」は、700年あまり経た今日でも不滅のもので、
その教えが息づく宗教生活は永平寺に綿々として伝わっています。
永平寺の四代・瑩山禅師の力により、日本曹洞宗として大きく根付いており、
一万四千の寺塔を中心に、海外にまで遠く及んでいます。
道元禅師の思想には、
「 学道の人は尤も貧なるべし 」が根本にあります。
勅使門
この勅使門は、永平寺と皇室とのゆかり深い関係があります。
彫刻により十二支が色鮮やかに刻まれています。
中央には空華翁 筆による「吉祥山」という額があります。
普段は閉められていますが、住職が正式に入山する折や、皇室から勅使のあった場合には開かれることになっています。
山門 県指定文化財
山門は「三門」とも書かれ、空・無相・無作の三解脱門(さんげだつもん)の意味にもとられます。また、修行者にとっては永平寺への入門先でもあります。下層の両側には二体づつの四天王が祀られ、外部から侵入する悪魔を除こうとしています。
また両柱には、54世博容卍海の句の棟札があり、
求道心の有るものはこの第一関を通行できるということが記されています。
曹洞宗大本山 永平寺
所在地
〒910-1228
福井県吉田郡永平寺町志比5-15
電車の所要時間 東京から新幹線→福井駅まで3時間30分
大阪から特急→福井駅まで1時間50分
名古屋から特急→福井駅まで約2時間
*福井駅から大本山永平寺までは、直通約30分の永平寺ライナーが通っています。