受験・学業成就をはじめ文教にまつわる守護神
谷保天満宮(やほてんまんぐう)は、都心からわずか40分ほどのところにあることを忘れるほど静かなたたずまいをしています。
学問の神である菅原道真(すがわらみちざね)公、
そして菅原道武公をご祭神としてまつっています。
(道真公をまつった本源である福岡の太宰府天満宮・京都の北野天満宮も、パワースポットのページで紹介しています。)
平安時代前期・菅原道真(845-903)は代々学者の家に生まれ、
幼少期から学問に秀でており、出世をつみ重ねて当時の天皇・宇多天皇から
蔵人頭(くろうどのとう)という側近の職に任命されました。
その当時、宇多天皇の近くで実権を握るはずだった藤原時平からライバル視されたといいます。
その当時も藤原氏の権力は強大でした。天皇であっても藤原氏には簡単に口を出せないほど藤原氏の影響力は大きかったのです。
宇多天皇は実権を藤原氏に握られるのを恐れて、その心配のない道真を抜擢しました。
藤原時平は自分より身分の低い出身であったにも関わらず出世を果たした道真を恨み、排除しようと考え出します。
その後897年、宇多天皇が譲位し醍醐天皇が即位します。
さらにその後899年、宇多天皇は仏教の信仰篤かったことから、出家をし去っていきます。
それでも宇多天皇の側近であった道真には政治的な影響力が残っていました。
藤原時平はこの時をチャンスとばかりに道真を貶めました。
延喜元年(901年)、道真は、醍醐天皇の代わりに娘婿を即位させようと企てていた謀反の容疑をかけられてしまうことになります。
そのため左遷となり、現在の福岡の地まで左遷にされてしまいます。
道真の娘婿は宇多天皇の実子なので、血筋では正当な後継者候補となりえました。
道真の三男、菅原道武朝臣(みちたけあそん)も武蔵国多摩部(現在の国立市)に配流されることになります。
不当な左遷からわずか2年後の延喜3年(903年)、道真は左遷にあったその地で息を引き取りました。
父の死の知らせを受けた道武は、父への思慕の情を抑えることができず、みずから父への尊敬の念を刻み、鎮座したのがこの谷保天神の始まりとなりました。
その後、天暦元年、京都北野天満宮の造営の際に威霊を奉上され神殿を造営し、初めて官社となりました。
健治年間には後宇多天皇より扁額「天満宮」を奉納され、
元禄年間には水戸黄門より扁額され、
武蔵国の学問の神さまとして知られるようになりました。
12月・1月の受験シーズンには、合格祈願のため父母や受験生が多く参拝し、絵馬を奉納して、お札を受けて帰る姿が見受けられます。
境内の梅林の「有栖川宮威仁親王殿下台臨記念」の石碑は、
明治41年8月1日に、宮様ご先導による日本初のドライブツアー「遠乗会」が、谷保天満宮を目的地として開催されたことを記念して建てられたものです。

国立駅前から谷保天満宮にいたる大学通りは、春は桜が満開になり、
秋はイチョウ並木が続きます。
秋の色づいたイチョウ並木は情緒があり、見る人の心を休ませてくれます。
谷保天神の鎮座する国立市は、不思議ながら一橋大学や国立音楽大学をはじめ、実に三十数校の学校のある学園都市です。
その中に学問の守護神が鎮座しているということに谷保天神の大きな恩恵を感じます。
道真には牛にまつわる伝説があり、
道真の亡きあと、福岡の地で遺体を運んでいくはずの牛が足を止め、その場に伏して動かなくなったという話があります。
これは福岡の地を愛した道真の御心だとして、その地に太宰府天満宮が建てられました。
学問の神の社としての代表であり、人々から深く崇敬されています。

境内に放し飼いにされています。 
境内のあじさい 占いパワースポット谷保天満宮のアクセス・交通 |
参照
谷保天満宮 公式ホームページ
東京都神社庁 谷保天満宮のページ
ご鎮座地〒186-0011
国立市谷保5208
電話 042-576-5123
電車のアクセス最寄り駅・・・JR南武線「谷保駅」 より、徒歩3分。
JR中央線「国立駅」より、バス5分。
京王線「府中駅」「聖蹟桜ヶ丘駅」より、バス10分。
自動車のアクセス中央高速道「国立府中インター」を降り、約3分。